2005年12月のロックンロール・レコード

[SIDE 29]  SEARCHING FOR THE YOUNG SOUL REBELS / DEXYS MIDNIGHT RUNNERS(1980)

1979年から80年代の始め頃、全英トップ20というラジオ番組があった。大貫憲章、今泉恵子両氏が司会のその番組はラジオ関東(今はラジオ日本)で日曜の深夜0時からの1時間番組だったと記憶してるんだけど、ともかく俺は毎週欠かさず聴いていたんだ。時代はパンクからニュー・ウェイヴへと移行する真っ只中、イギリスの音楽シーンは新人アーティストが次から次に現れ、本当に面白かったし目が離せなかった。パンク以降またシングルの時代がやって来て、所謂一発屋と言われる人達も含めて色々なシングル盤を買ったものだった、Mの「ポップ・ミュージック」やヴェイパーズの「ターニング・ジャパニーズ」、ゲイリー・ニューマン「カーズ」、ダイアー・ストレイツ「悲しきサルタン」もこの頃か、バグルスの「ラジオスターの悲劇」とか大好きだったなぁ…
その全英トップ20でチャートに入ってきたのが、このデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの「GENO」だった。ホーン・セクションが印章的な軽快な曲に、ちょっと鼻に掛かったソウルフルな歌声、俺の耳は何となく惹きつけられてしまったのだ。暫くしてアルバムが発売されたんだけど、そのジャケットとアルバムタイトルを見ただけで、これはどうしても買わなければいけないレコードだと思ってしまった。『SEARCHING FOR THE YOUNG SOUL REBELS』〜『若き魂の反逆児を求めて』と題されたそのアルバム、くすんだグリーンに加工された写真のジャケットには、雑踏の中、両手に旅行鞄を持ちコートを着た少年がこちらを見ている姿が写っている、おそらく60年代の写真なのだろうが(俺にはそう思えるんだが)少年の表情がまたイイ、不安と期待が入り交じった何とも言えない顔をしている。彼は荒野に旅立とうとしているのか?それとも新天地を求めて、この見知らぬ遠い街へとやって来たのだろうか?いずれにせよ彼の顔にはキッパリとした決意のようなものが感じられるのだ。
アルバムはラジオのチューニング音から始まる、いじっているとディープ・パープルの「SMOKE ON THE WATER」が聞こえてくる、次いでピストルズ「HOLYDAYS IN THE SUN」、スペシャルズ「RAT RACE」が流れ、ブチッと切る音と共に勇ましい掛け声から1曲目の「BURN IT DOWN」へとなだれ込む、このイントロのカッコ良さ!トロンボーンが響き、どっしりとした力強い演奏が始まった途端もう好きになってしまったよ。次は俺達の出番だぜ!とでも言わんばかりじゃないか。2曲目の「TELL ME WHEN MY LIGHT TURNS GREEN」も良いな、ヒットシングル「GENO」はもとより「SEVEN DAYS TOO LONG」なんて当時の自分のバンドの歌詞にちゃっかり使っちまった位好きよ。全体的に派手さはないけど、ストリートを大股で行進して行くような勇ましさを感じるアルバムだ。まさに『若き魂の反逆児を求めて』というタイトルに相応しいサウンド。時代は2トーンブームでスカだレゲエだ、いやダブだと騒いでいたが(俺もか)そんなものはカンケー無いぜとばかりにオーティス・レディングやサム&デイヴばりのソウルミュージックに徹したデキシーズは相当カッコ良いんじゃないか。そのスタンスは圧倒的にロックだと俺は思ったぜ。80年代はソウルミュージックが見直された時代だと以前書いたけど、1番見直してたのは実はこの俺だったのかも知れない。ソウル/ディスコフリークは中学、高校時代周りに居たし(サタデイ・ナイト・フィーヴァー世代なもので…)スティーヴィー・ワンダーやEW&F等は聴いていたしストーンズからもR&Bを教わった、でも実際にレコードを買ったりはしなかった、他に聴きたいロックが山ほどあったから。やっとジャムやデキシーズをきっかけにモータウンやニューソウルをちゃんと聴いてみようと思い直した訳なんだ。ソウルもカッコ良いじゃんと、新しい扉を開いてくれたのが彼等だった。
リマスターCDを手に入れた事もあって、今年はこのアルバムを良く聴いていた。サウンドは今でも最高だと思うし、懐かしさも勿論ある、しかし何と言ってもこのジャケットとタイトルに今も俺の心は揺さ振られる。ストラマーズ20周年の今年も終わろうとしているが、21年目の幕を明けるS.Eとしてもう一度俺は大音量で鳴らしたい。『若き魂の反逆児を求めて』…
P.S 19の時、俺も鞄一つとステレオ、レコード、愛用のギターだけを持って、テレビも冷蔵庫も持たずに家を出て1人暮らしを始めた、あの時の俺もこんな顔をして高円寺に立っていたのだろうか。(なんてちょっと美化し過ぎか…)
来年もR&Rレコードをヨロシク!
(2005.12.30)

[SIDE 28]  BEAT SURRENDER / THE JAM(1982)

アルバム『THE GIFT』を初の全英No.1に送り込んで活動のピークを迎えつつあったジャムが突然解散を表明したのは1982年10月の終わり、日本公演から僅か4カ月後の事だった。俺は大ショックを受けた、とても信じられなかったし、デマであって欲しかった。あの素晴らしいライヴはまだ記憶に生々しく残っていたし、つい9月には美しいストリングスを加えた名バラード「THE BITTEREST PILL(I EVER HAD TO SWALLOW)〜(全英2位)を発表したばかりではないか。まだ若干24歳のポール・ウェラーからのメッセージはこうだった、「我々はグループとしてやるべき事は全てやったと感じている。今、絶頂期に去りたいのであって、他のグループのように落ちぶれた姿をさらしていく事は耐えられない」と。余りに潔い決断だし、カッコ良すぎだぜポール!…俺は悲しみをグッと堪えて納得したんだ。解散表明に際しピート・タウンゼントはポールについて「偽善者になる事をこれ程恐れていたアーティスト、ソングライターに出会った事は今までなかった」と語っているが、それこそがポール流のファンに対する誠実さの証であり、音楽を通してジャムが送り続けたメッセージでもあったように思う。そんなバンドだからこそこっちも夢中になったのだ。8月からしつこくジャムのストーリーを書き続けてきた俺の堅苦しい文章に付き合ってくれた人には判って貰えるんじゃないかな。ジャムはそんなポールの高い理想主義に貫かれたバンドであり、それはデビュー曲の「IN THE CITY」からずっと変わっていない。そしてジャムは使命を果たしたのだ、ファンであるこちらとしては、いつまでも活動し続けてもらいたいと当然思う訳だけど、金の為に惰性でバンド活動を続け、昔のヒット曲に頼るライヴなんてファンに対して、いや自分に対しても最悪な行為である、それは今の自分と照らし合わせて考えれば良く判る、彼等は正しかった。俺はまた一つ学んだんだ。
ジャムからのお別れの曲は11月に届けられた、7インチ2枚組の5曲入りE.Pとして。「BEAT SURRENDER」とタイトルされた感動的なその曲は俺にとって、アラームの「68 GUNS」、UB40の「KING」やプリテンダーズの「TALK OF THE TOWN」等と共に80年代を通じてのベストシングルの一枚に数えられる名曲中の名曲、今でも泣けてくる。ソウルクラシックのカヴァーを含むカップリングの「SHOPPING」、「MOVE ON UP」、「STONED OUT OF MY MIND」、「WAR」も味わいがあって良い曲だ。当然全英No.1を獲得。この頃はクラッシュ等のニューシングル同様、入荷を待って輸入盤屋に駆けつけ、手に入れたものだった。しかも日本ではこの曲は発売されなかったのだ!「THE BITTEREST PILL」がジャムのラストシングルとしてラジオCMでも流されていた、そんなのあるかよ!いくらもうこの先が無いからって、いくら2枚組E.Pはコストが掛かるからって(?)こんな意義ある曲を発売しない日本のレコード会社のヤル気の無さには当時、本当に腹がたったし悔しかったなぁ…所詮ジャムの扱いはこんなものだったのだ。
フェアウェルツアーはウェンブリー・アリーナ5夜連続公演を含み、アルバム『SETTING SONS』の裏ジャケットにも描かれているブライトンで幕を閉じた。それはヒストリー的なライヴ・アルバム『DIG THE NEW BLEED』(12月10日発売)がチャートを駆け上がっている最中の事でもあった。これをもってジャムは解散した、当時の俺を含む多くの若い世代に理想を掲げる事の大事さとアティテュード、たくさんのインスピレーションを残して。それは今も俺の心の中で熱い鼓動となって生き続けているよ、ありがとうTHE JAM!
(2005.12.26)

[SIDE 27]  THE GIFT / THE JAM(1982)

実験的で挑戦的なアルバム『SOUND AFFECTS』を引っ提げてジャムが2度目にやってきたのは1981年5月の事だったか…情けないがこの2度目の日本公演の記憶が余り残っていない。覚えているのは中野サンプラザで観たそのライヴ後半にエキサイトした俺は座席を立って多くの観客と共にステージ前になだれ込み、警備員と揉みくちゃになりながら踊っていた事、前座にデビュー直後のTHE MODSが出演した事、あとはポールがチェリーレッドのSGをジョージ ハリスンばりに弾いてた事位か…何となく音が悪いライヴだった気がするな、分離が悪いと言うか引き締まってない音。期待のモッズの印象も余り良くなかったもの。
ジャムは進化を続ける…時には迷いながらも。来日前後に出たネオサイケデリックなシングル「FUNERAL PYRE」はアグレッシヴだが暗く沈み込むような曲だった。プロモヴィデオと共にダークなイメージがこの頃のジャムにはあるな、プロデューサーも今までのヴィック・コパースミス-ヘヴンからピーター・ウィルソンに変わってサウンドも変化を遂げている、全体像はソリッドだが、それまでのエキセントリックな感じよりもエコー感を生かしたふくよかで温もりのある音へと変わったように思う。更に10月発売のシングル「ABSOLUTE BIGINNERS」ではホーンセクションが加わり、ラテン風のファンキーサウンドを聴かせてくれた。次なるステップへの第一歩といった所だろう。B面の風変わりなサイケの傑作「TALES FROM THE RIVERBANK」も素晴らしく、大好きな曲だ。
最後のスタジオ作となってしまったアルバムは年が明けた1982年の3月に登場。先行シングル「TOWN CALLED MALICE」はシュープリームスのジャンプビートを使ったモータウン風の名曲で、全英初登場NO.1をまたもや獲得、揺るぎない人気を証明している。B面はオートワウのカッティングを生かした大胆なファンクナンバー「PRECIOUS」と、益々ブラックミュージックへと傾倒して行くバンドの姿勢が表されている。元々ブリティッシュビートとモータウンR&Bをルーツに持つジャムではあるのだが、そこから一歩踏み込んでノーザンソウルやコンテンポラリーなブラックミュージックへとポールの興味は向かって行ったのだろう。スティーヴ・ニコル(トランペット)、キース・トーマス(サックス)を加えた5人編成で大半の曲は録音されているが、ライヴはさながらDJを交えたソウル・レヴュー形式で行われていたようだ。これはポールが後に結成するTHE STYLE COUNCILへとストレートに伝わって行く流れである。しかしアルバムのクオリティは極めて高く、1曲目の「HAPPY TOGETHER」から「GHOSTS」、「JUST WHO IS THE 5 O'CLOCK HERO」とジャムワールドにぐいぐいと引き込まれて行く。B−1の「RUNNING ON THE SPOT」では思わず拳を突き上げたくなる程の高揚感に包まれてしまう。新しい目標を見出だし突き進む新生ジャムの第一弾!と言っても良い位の素晴らしい作品である。
この頃デュラン・デュランやスパンダー・バレエ、ヴィサージ等フューチャリストと呼ばれる一団、即ちニュー・ロマンティックスの台頭を毛嫌いしていたポールだったが、一方でポール・ヤングのクエッションズやディキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、ひょっとしたらカルチャー・クラブ等にはインスピレーションを受けたのではないだろうか、80年代はダンス・ミュージックが確立された時代であるし、ソウル・ミュージックが見直され、レゲエはもとよりヒップホップ等が広く一般にも浸透した時代であったからね。因みにニューロマ、嫌いじゃなかったな俺、特にアダム&ジ・アンツとかさ、デュラン・デュランも悪くないと思ってたよ。
1982年と言えば、1月から2月にかけて、同じく時代と格闘していたクラッシュ来日の狂騒劇があった。その興奮が覚めやらぬまま、ジャム3度目の来日公演が決定!俺の心は再びジャムにシフトされたのだった…
6月16日、日本青年館、前座はTHE BADGE。カーティス・メイフィールドのカヴァー、「MOVE ON UP」でスタートした5人編成のジャムの最高のライヴに俺は酔った、我を忘れて歌い、踊った。やっぱジャムは最高だ!これからの活動がこんなにも楽しみなバンドはそう無いぜ、心底そう思っていた、ポール・ウェラーの尽きる事のない情熱と音楽への溢れる愛情、それは俺の憧れであり大きな目標だった…ああ、それなのに…。
TO BE CONTINUED…
(2005.12.16)

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